街頭演説集

第151回 断水と給水

12年前の教訓活かした、呉市における断水と給水の真相

Facebook 2018.8.10

 去る8月7日は151回目の街頭演説。テーマは断水と給水についてです。

 呉市は西日本豪雨災害の影響で、7月7日(土)から断水になり、14日(土)から19日(木)にかけて断水が段階的に解除されました。配水管が破損した広石内北部は7月27日、ポンプ所が被災した川尻町も8月1(水)~2日(木)には断水が解かれ、市内ほぼ全域が水の苦労から脱出したことになります。
 断水の原因は、広島市東区にある太田川戸坂取水場から呉市の宮原浄水場まで原水を運ぶ、県営の送水トンネル(6号トンネル)に土砂が流入したことです。原水の供給源が断たれたことにより、実に78,000世帯、153,500人が断水に追い込まれたのです。

 先ず、断水地区と非断水地区を選択せざるを得なかった理由について、考察してみます。
 呉市の工業用水を除く水源は大きく3通りあるのです。その大半を占めていた太田川南ルートが断たれました。これに対し太田川北ルートは、広島市安佐北区にある高陽取水場から引水し、県営瀬野川浄水場に送られ、飲料水を作ります。ここから配水管で焼山、郷原、広石内北部、安浦へと続きます。これらは広石内北部を除き、断水になりませんでした。
 因みに、広石内北部は二級トンネル下の上段原橋が流されたことに伴い、配水管が破損したことで断水になったのです。安浦町も一部で配水管が破損したことにより、野呂川下流地域や内海北、安浦中央北が断水に見舞われました。
 ところで、安芸灘4島は宮原浄水場から東部幹線によって上水が供給されていましたが、12年前同様、瀬野川浄水場から大崎上島まで配水しているのを、配管が繋がっているのが幸いして大崎下島、豊島、上蒲刈島へ逆走したことで断水を免れました。但し、蒲刈町では向地区等の一部は高低差が少ないため水圧が取れず断水になりました。下蒲刈島も同様です。
 そこで残されたもう一つの水源ですが、これは二河川です。これは本庄水源地で取水し、これを宮原浄水場に送水し、浄水加工した上で、瀬野川浄水場水系以外の所に、工業用水を含まず配水しています。これにより12年前と同様断水になる地区とならない地区が生じたという訳です。
 尚、断水になる地区とならない地区をどうやって決めるかといいますと、それぞれの配水幹線沿いにある給水人口と供給水量を比較し、できるだけ合致するように致します。そうしないと、ある配水池水系を通水したものの、給水される所と断水が続く所が出ると、混乱を来すためです。
 このような理由から、宮原低区配水池水系と平原低区配水池水系のみを通水したのです。ですから中央地区低地部については断水を回避することができました。それ以外の地区は、瀬野川浄水場ルート、及びその逆走ルート地区を除き、全て断水しました。

 ここで、12年前の断水事故を想い起こしてみましょう。平成18年8月26日から9月1日まで1週間断水に見舞われましたが、原因は6号送水トンネルの崩落事故により、原水がストップしたことにありました。つまり、今回とほぼ同様のケースです。
 ところが、当時断水になったのは、20,100世帯で、48,200人に止まりました。原水供給源が断たれたこと、その中身がほぼ同様にも関わらず、何故この度は12年前と比べ、影響が大きかったのかという素朴な疑問が残りました。
 種明かしはこうです。当時は不足する水源を賄うため、先ず郷原にある二級ダムから、いち早く原水を供給することができたのです。ここは中国電力が管理運営しており、電力を起こすのに必要なダムとの位置付けです。これを石内水源地から当時稼働していた平原浄水場とそこを経て宮原浄水場まで大量の原水を送り、浄水加工して配水することができました。
 その際東部幹線を活かしましたので、阿賀、広(広白石4丁目の一部を除く)両地区の断水を免れたという訳です。
 ところがこの度は、上段原橋崩落に伴い管路が断たれ、二級ダムの水源を活用することができなかったというのが真相です。だから12年前は広石内北部は瀬野川浄水場ルートだったので断水は免れていますが、この度は断水に見舞われたのです。

 そこでこの度、呉市上下水道局としては水源確保のため、工業用水用だった二河川水源地(取水口)の原水を供給先である日新製鋼、淀川製鋼所、王子マテリアの了解を得て、飲料水に回したのです。それの準備で時間を要した後、7月10日(火)の15時、その増量した水源分を浄水化した上で西部幹線に通水しました。これは三条、川原石、吉浦、天応ルートです。ところが水流を早め過ぎたことで晴海町の配水管の漏水事故が発生し、同日19時に再度バルブを閉めて断水継続となったのです。
 その復旧作業の後、12日から通水を復活させ、天応は13日に断水解除となりました。つまり、12年前はこの西部幹線の再開が最後となりましたが、この度は阿賀・広方面への東部幹線が最後となった訳です。
 また12年前は、窮余の策として、二河川下流から集水し、それを送水管に接続して宮原浄水場に原水を送るウルトラCを実施しました。前回の教訓を活かし、この度もこの手段をいち早く検討したようです。しかし、この水は水質悪化で浄水加工には不適であることが判り、送水トンネル復旧見通しが立ったことで、この手段を断念致しました。
 その復旧が7月13日(金)で翌14日(土)からいよいよ東部幹線のバルブを開け、給水を開始したのです。初日の阿賀・広低地部を皮切りに19日(木)の倉橋町大迫・鹿島を最後に段階的に断水が解除されました。

 12年前の苦い体験を踏まえ広島県企業局では、現在もう1本の南ルートである送水トンネルを掘削中です。これは平成34年度完成予定となっており、この工事完了を控えた段階でのトンネル事故は残念でなりません。
 また、県任せで呉市として対策を講じていなかった向きもなくはありません。瀬野川浄水場から広石内北部に来る上水が、広石内南部と繋がっていなかったことも判明したのです。もし繋がっていたら、万一の際、広方面への逆走も考えられたところでした。高地から低地へ自然流下するので、水は浸透し易い環境にはあります。
 ただこの度は上段原橋崩落により、結果的には同じことではありました。そうでなければ、12年前と同様二級ダム水源の活用もできたはずですから、費用対効果は検証が必要です。

  一方、市内の約7割が断水に陥ることで、各地区に給水拠点を設置しました。これは12年前の断水事故を教訓として、その後断水拠点を予め指定しておいたのです。指定拠点は106箇所あります。
 では、その中で当初40箇所を選定したのは何故でしょうか?もっと多くの拠点を設置して欲しいとのご要望が多々出されました。
  実は、呉市上下水道局には給水車(タンク付き)が僅か1台、給水タンクが40基しかありませんでした。この様な事情から当初の拠点を40箇所に絞ったのです。また、各拠点に職員を配置する必要がありますが、それも同局だけでは足りませんので、市長部局からも派遣してもらったのです。
 また、片山中学校や長迫小学校など、断水になっていない学校が給水拠点に指定されました。これは、断水に陥っている学校だと、タンクの水がなくなると車両に積んだタンクに平原低区配水池まで給水に行かなければならず、その間拠点が空白になってしまうのです。ですから中央地区で断水になっていない学校がいくつか選定されたのは、このような理由からなのです。ここでは、タンク給水の必要がなく、蛇口を捻って給水すれば事足りた訳です。
 その後市民からの要望もあって、7月14日(土)にはマックス60箇所に増やしました。給水拠点指定以外の箇所も地元市民センターと相談して、臨時給水所として開設しました。中央公園のそれが一例です。それ以外に拠点指定外の場所も急遽選定し、高地部とかを個別給水と位置付け、給水車を巡回したりすることで対応しました。
 これら追加対応が可能となったのは、外部からの給水車の支援があったからです。具体的には、陸上自衛隊から29台、国土交通省からは給水栓2船、日本水道協会からは13台が到着したのです。同協会に加盟している各自治体の水道局等からの応援です。熊本市、玉名市、宮崎市、日向市、大津市、伊賀市、敦賀市等です。
 結局、断水地区と非断水地区との不公平感、給水拠点に近い、遠いとの不公平感はどうしても拭えませんが、それは大局的観点に立脚して、市民の皆様の深いご理解と、節水へのご協力こそが、この度の断水という難局を乗り越える道だったと痛感しています。
 事故発生当初は、原因が特定できず、トンネル被災現場には交通インフラの寸断で近づけずといったマイナス要因が複層しました。その際、復旧や断水解除の見通しが全く立たなかった訳です。それを1週間で通水開始に漕ぎ着けた背景には、県企業局や呉市上下水道局を初めとする県や呉市の努力、そして国や他都市から応援態勢があってこそのことでありました。
 この度の教訓を更に将来に活かして参りたいと考えております。

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